≪強い子供というのは、強い親から生まれるのでは!?≫
〜誠に勝手な持論を展開してみる。〜
『教育論』
人それぞれ違うのは当たり前。今まで出来てた事が今は出来ていない。もっと悪い方向へ向かうのではと思う今日この頃。
そんな中、石原都知事だけがズバッとこの問題に切り込んだ。
自殺予告:大人によるいたずらの可能性?石原知事が見解
〜引用ココから〜
東京都の石原慎太郎知事は10日の定例会見で、いじめ自殺を予告する手紙について、文章能力から「あんなものは大人の文章だ。理路整然としていて、私は違うと思う」と述べ、大人によるいたずらの可能性が高いとの見方を示した。
石原知事は手紙を受けた文部科学省など関係機関の対応については「届けられた方は迷惑千万でね、放てきするわけにはいかないだろうから、防ぎようもない」と同情。
また、「とにかく親が関与すべきではないか。私なんか、子どもにけんかの仕方を教えた。非常に効果があって、たちまち相手を倒したら小学校で番長になっちゃった」と自身の子育て経験に触れた。そのうえで、「自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」と語った
〜ココまで〜
文科省に送られた手紙の内容が本物かどうかは定かではないが、手紙を送る勇気があるならば、立ち向かう勇気もあるのではないか。
しかし、立ち向かうだけが勇気ではないと私は思う。
逃げる事も勇気の一つだ。この事で逃げる事は何も恥ずべき事では無いと私は思う。
何でもかんでも立ち向かえというのは人格が形成されきった大人に対してはハッパに受け取られるが、子供に対しては『自殺しろ』とあえて言い放っているようなもんだ。
大人になったら嫌でも逃げれない現実が待ち構えているのに、唯一逃げれるのは親に養われている子供の時代ぐらいなもんだ。
石原都知事の持論は『喧嘩を覚えさせる』事であるがこれはこれで私は好きだ。
『理想的』である。
しかし、この記事の中では『とにかく親が関与すべきではないか』が一番重要でしょう。しかし、今は無関心な親が多い事多い事。
これを良く頭に入れて欲しい。子供に無関心な親は『自分自身にも無関心』である事だ。
これは『自己中心的』という意味ではない。親が『子供からどう見られている』かとか『子供からどうみられたいか』と言う事である。
その確認が出来ない、しようとしない『自分自身にも無関心』な親は子供の気持ちも余り良く理解しようとしていないのではないか。
そして、虐めが発生したら学校の責任。学校の責任。学校の責任。
なんか違和感を感じるのは私だけか?
「学校がキッチリ監視していなかったから学校の責任。」
「学校側が把握していながら放置していたから学校の責任。」
「学校側が虐めた生徒を注意しなかったから学校の責任。」
そりゃ、そう言われればそうかもしれんがマスメディアには、虐めた側の親や、虐められた側の親の責任を問う声が非常に少ない。
親を注意しなければこの問題はいつまでたっても極度に悪い扱いの社会問題にされ続けるだろう。こういう問題が発生して、それが親の責任が一番に来る様な世の中になれば、少々おバカな親でも自分が悪者になるのが嫌だから一生懸命子供に関わろうとするだろう。
親が関わらないで学校にマル投げするから、また学校の責任にしたくなる、してしまう、せざるえなくなる。結局、学校の制度の問題、世の中の風潮の問題に転嫁されて話が大きくなり、実際の闇は閉ざされていく。
かのマザーテレサも言っていたらしいが、『愛の反対は”無関心”である』と。
私はそんなに親に怒られていた方でもなかったし、会話も頻繁にする方ではなかった。むしろ父親とはゆっくり、じっくり話をした記憶が今までにない。
しかし、私から親を見ていて『この一線以上の事をしたら怒られる、怖い!』っていうのはハッキリあった。
それがあった事でそれ以上の事は余りしなくなるように自然となっていた。
(たまに脱線もしていたが・・・)
会社の上司にしろ、学校の先生にしろ、子供の親にしろ、常々私が言いたいのは『いつもカッコをつけててくれ』である。頭が良い悪いではない。
例えば、ある一つの事に没頭して妥協を許さない所があるとか、何事にも手を抜かず一生懸命であるとか、常日頃から凛としている風貌だとか。
これは一つの理想像として至極説得力のある論評を石原都知事は展開されている。
↓ ↓ ↓
石原慎太郎 教育論
教育というのはある意味常に理想論で成り立たせないと駄目なのではないか。政治にも同じ事が言えるかもしれないが。
理想なき現実追従は行き当たりばったりになる。その場限りの対処法、辻褄合わせの法理論、感情論だけの精神性。
その事に一番最初に気付かなければならなのは『親』のほうなのではないだろうか。
****************************
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『教育論』
人それぞれ違うのは当たり前。今まで出来てた事が今は出来ていない。もっと悪い方向へ向かうのではと思う今日この頃。
そんな中、石原都知事だけがズバッとこの問題に切り込んだ。
自殺予告:大人によるいたずらの可能性?石原知事が見解
〜引用ココから〜
東京都の石原慎太郎知事は10日の定例会見で、いじめ自殺を予告する手紙について、文章能力から「あんなものは大人の文章だ。理路整然としていて、私は違うと思う」と述べ、大人によるいたずらの可能性が高いとの見方を示した。
石原知事は手紙を受けた文部科学省など関係機関の対応については「届けられた方は迷惑千万でね、放てきするわけにはいかないだろうから、防ぎようもない」と同情。
また、「とにかく親が関与すべきではないか。私なんか、子どもにけんかの仕方を教えた。非常に効果があって、たちまち相手を倒したら小学校で番長になっちゃった」と自身の子育て経験に触れた。そのうえで、「自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」と語った
〜ココまで〜
文科省に送られた手紙の内容が本物かどうかは定かではないが、手紙を送る勇気があるならば、立ち向かう勇気もあるのではないか。
しかし、立ち向かうだけが勇気ではないと私は思う。
逃げる事も勇気の一つだ。この事で逃げる事は何も恥ずべき事では無いと私は思う。
何でもかんでも立ち向かえというのは人格が形成されきった大人に対してはハッパに受け取られるが、子供に対しては『自殺しろ』とあえて言い放っているようなもんだ。
大人になったら嫌でも逃げれない現実が待ち構えているのに、唯一逃げれるのは親に養われている子供の時代ぐらいなもんだ。
石原都知事の持論は『喧嘩を覚えさせる』事であるがこれはこれで私は好きだ。
『理想的』である。
しかし、この記事の中では『とにかく親が関与すべきではないか』が一番重要でしょう。しかし、今は無関心な親が多い事多い事。
これを良く頭に入れて欲しい。子供に無関心な親は『自分自身にも無関心』である事だ。
これは『自己中心的』という意味ではない。親が『子供からどう見られている』かとか『子供からどうみられたいか』と言う事である。
その確認が出来ない、しようとしない『自分自身にも無関心』な親は子供の気持ちも余り良く理解しようとしていないのではないか。
そして、虐めが発生したら学校の責任。学校の責任。学校の責任。
なんか違和感を感じるのは私だけか?
「学校がキッチリ監視していなかったから学校の責任。」
「学校側が把握していながら放置していたから学校の責任。」
「学校側が虐めた生徒を注意しなかったから学校の責任。」
そりゃ、そう言われればそうかもしれんがマスメディアには、虐めた側の親や、虐められた側の親の責任を問う声が非常に少ない。
親を注意しなければこの問題はいつまでたっても極度に悪い扱いの社会問題にされ続けるだろう。こういう問題が発生して、それが親の責任が一番に来る様な世の中になれば、少々おバカな親でも自分が悪者になるのが嫌だから一生懸命子供に関わろうとするだろう。
親が関わらないで学校にマル投げするから、また学校の責任にしたくなる、してしまう、せざるえなくなる。結局、学校の制度の問題、世の中の風潮の問題に転嫁されて話が大きくなり、実際の闇は閉ざされていく。
かのマザーテレサも言っていたらしいが、『愛の反対は”無関心”である』と。
私はそんなに親に怒られていた方でもなかったし、会話も頻繁にする方ではなかった。むしろ父親とはゆっくり、じっくり話をした記憶が今までにない。
しかし、私から親を見ていて『この一線以上の事をしたら怒られる、怖い!』っていうのはハッキリあった。
それがあった事でそれ以上の事は余りしなくなるように自然となっていた。
(たまに脱線もしていたが・・・)
会社の上司にしろ、学校の先生にしろ、子供の親にしろ、常々私が言いたいのは『いつもカッコをつけててくれ』である。頭が良い悪いではない。
例えば、ある一つの事に没頭して妥協を許さない所があるとか、何事にも手を抜かず一生懸命であるとか、常日頃から凛としている風貌だとか。
これは一つの理想像として至極説得力のある論評を石原都知事は展開されている。
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石原慎太郎 教育論
教育というのはある意味常に理想論で成り立たせないと駄目なのではないか。政治にも同じ事が言えるかもしれないが。
理想なき現実追従は行き当たりばったりになる。その場限りの対処法、辻褄合わせの法理論、感情論だけの精神性。
その事に一番最初に気付かなければならなのは『親』のほうなのではないだろうか。
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