≪天皇の戦争責任はある?≫
本日は天皇陛下(先帝陛下)の戦争責任について触れてみたいと思います。
日本国憲法無効論を語るにはこの「天皇の戦争責任」の問題について触れないわけにはいかない。なぜなら、多くの日本人は「天皇は日本国のトップだったんだから、戦争に負けた事の責任とらなきゃダメなんじゃないの?」などと、会社の会長みたいな感じで捉えている方が数多くいらっっしゃる。(私も前まではそのような認識を持っていた。)
中には、靖國神社の英霊には感謝申し上げるし参拝も毎年欠かさないが、天皇陛下に対しては何らかの責任があった、などと言う自称保守の方も未だにいらっしゃるようで、このような方に申し上げたいのは「貴方は一体何を保守しようとしているんですか?」と。
結論から言うと、「天皇陛下に戦争責任など無かった」ということになる。なお問題の焦点を定める為、大東亜戦争及び第二次世界大戦当時の国際法、国内法、慣例に従って解釈する。
まず最初に基本的に押さえておかねばならないのは、「戦争」という行為は国家政治における、外交の延長線上にある最終手段であり、国家の発動による交戦権は国際法でも認められている行為だという事。
つまり、どんな国家でも外交における交渉、話し合いがまとまらない時は、戦争でもって決着をつける権利が国際的に認められているという事である。それが例え今の価値観で言う「侵攻的」な戦争行為であったとしても、当時では自衛と侵攻の判断は自主的な解釈権が実質的に当事国に委ねられており、その事も国際法では規定されていない。
仮に大東亜戦争が是認されるべき自衛行為だったかどうかという論議を別にしたとしても、国際的にはもうこの説明だけで、「戦争を起こした罪」などが天皇に無い事を説明するには十分である。(東京裁判におけるいわゆるA級戦犯については、このエントリーでは触れない)
次に、国内法において「天皇の戦争責任があったか?」という事についてだが、日本国内において戦争を開始するための手続きに必要なのは、大日本帝国憲法第十三条に基づいた天皇大権発動である。
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
大日本帝国憲法の第一章には天皇の権限についての規定がなされており、この第十三条はいわゆる天皇の外交大権と呼ばれている物。これらの文言をそのまま読み取れば、「戦争をするしないも天皇次第だったんだな」などと解釈してしまいがちだが、実際はそんな事は無い。これらの権限を発動するには第五十五条にに基づいて、国務大臣の輔弼と副署が必要であった。
第五十五条
第一項 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責(せめ)ニ任ス
第二項 凡(すべ)テ法律勅令(ちょくれい)其(そ)ノ他国務ニ関(かかわ)ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署(ふくしょ)ヲ要(よう)ス 」
いくら天皇の命令であっても、国務大臣が承諾しなければ天皇は公に勅令や詔勅(開戦の詔勅)を発する事さえ出来なかった。国務大臣が副署(承諾)しないからと言って、天皇が国務大臣を更迭するなどという権限も与えられていなかった。
ここで重要な事は、帝国憲法が正常に作動し、日本が「立憲君主制」として成り立っていたかどうかである。帝国憲法の第一章において天皇が無闇に大権を発動し、国家を動かしていたのであれば、それは「専制君主制」の国家であり、「天皇がすべての権力を支配する日本」という事になる。
例えば、明治27年に始まった「日清戦争」では、日本政府おもに外務省と軍部は清国(当時の支那地域の支配国)との戦争は止む無しという事で、開戦に向けて準備を進めていたが、この時の明治天皇は清国との戦争には反対していた。
しかし、政府はそんな明治天皇のご意向を全く無視して開戦した。天皇のご意向よりも政府の意志が最優先されたのであり、開戦直後の当時、伊藤内閣において明治天皇は政府の方針に従って、開戦を裁可された。というより、裁可されるほか無かったのである。
そんな中でも、天皇陛下が自らご判断を下した例が2つあった。それは2.26事件と、終戦の詔勅の時である。
2.26事件は昭和11年、日本陸軍の青年将校を中心として勃発したクーデターである。この時の首都東京における政府機能はこの将校たちによって占拠状態とされ、政府が完全な機能不全に陥った「無政府」状態になった。
これに対して軍首脳部も青年将校らを支持するべきか否かを決めかねており、これら将校を反乱軍として処罰するべきかどうかも判断出来ない状態になっていた。この時に先帝陛下自ら「これらは反乱軍である」と政治判断をされたため、ようやく軍部も決断し事件が収束した。
二つ目の終戦においては当時の日本は、大東亜戦争を終戦させるか否かを決める御前会議において、当時の鈴木貫太郎内閣の首脳陣はその判断を出来ずに決めかねていた。そこで先帝陛下にご判断を仰ぎ、陛下が終戦することのご聖断をされた。事実上、政府が完全に機能を停止していた状態であったため、2.26事件の時と同様に、陛下にご判断頂く他に事態を打開する手立てが無かった、非常事態の緊急措置として見るべき事例であった。
この事によって、帝国憲法第五十五条は解釈はすでに確定したいたといえ、日本において帝国憲法が正常に作動し、立憲君主国家として成り立っていた事の証左であると言える。日清戦争も日露戦争も、大東亜戦争開戦においても天皇陛下のご意向が優先されることは無く、戦争責任など存在しないのである。
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本日は天皇陛下(先帝陛下)の戦争責任について触れてみたいと思います。
日本国憲法無効論を語るにはこの「天皇の戦争責任」の問題について触れないわけにはいかない。なぜなら、多くの日本人は「天皇は日本国のトップだったんだから、戦争に負けた事の責任とらなきゃダメなんじゃないの?」などと、会社の会長みたいな感じで捉えている方が数多くいらっっしゃる。(私も前まではそのような認識を持っていた。)
中には、靖國神社の英霊には感謝申し上げるし参拝も毎年欠かさないが、天皇陛下に対しては何らかの責任があった、などと言う自称保守の方も未だにいらっしゃるようで、このような方に申し上げたいのは「貴方は一体何を保守しようとしているんですか?」と。
結論から言うと、「天皇陛下に戦争責任など無かった」ということになる。なお問題の焦点を定める為、大東亜戦争及び第二次世界大戦当時の国際法、国内法、慣例に従って解釈する。
まず最初に基本的に押さえておかねばならないのは、「戦争」という行為は国家政治における、外交の延長線上にある最終手段であり、国家の発動による交戦権は国際法でも認められている行為だという事。
つまり、どんな国家でも外交における交渉、話し合いがまとまらない時は、戦争でもって決着をつける権利が国際的に認められているという事である。それが例え今の価値観で言う「侵攻的」な戦争行為であったとしても、当時では自衛と侵攻の判断は自主的な解釈権が実質的に当事国に委ねられており、その事も国際法では規定されていない。
仮に大東亜戦争が是認されるべき自衛行為だったかどうかという論議を別にしたとしても、国際的にはもうこの説明だけで、「戦争を起こした罪」などが天皇に無い事を説明するには十分である。(東京裁判におけるいわゆるA級戦犯については、このエントリーでは触れない)
次に、国内法において「天皇の戦争責任があったか?」という事についてだが、日本国内において戦争を開始するための手続きに必要なのは、大日本帝国憲法第十三条に基づいた天皇大権発動である。
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
大日本帝国憲法の第一章には天皇の権限についての規定がなされており、この第十三条はいわゆる天皇の外交大権と呼ばれている物。これらの文言をそのまま読み取れば、「戦争をするしないも天皇次第だったんだな」などと解釈してしまいがちだが、実際はそんな事は無い。これらの権限を発動するには第五十五条にに基づいて、国務大臣の輔弼と副署が必要であった。
第五十五条
第一項 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責(せめ)ニ任ス
第二項 凡(すべ)テ法律勅令(ちょくれい)其(そ)ノ他国務ニ関(かかわ)ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署(ふくしょ)ヲ要(よう)ス 」
いくら天皇の命令であっても、国務大臣が承諾しなければ天皇は公に勅令や詔勅(開戦の詔勅)を発する事さえ出来なかった。国務大臣が副署(承諾)しないからと言って、天皇が国務大臣を更迭するなどという権限も与えられていなかった。
ここで重要な事は、帝国憲法が正常に作動し、日本が「立憲君主制」として成り立っていたかどうかである。帝国憲法の第一章において天皇が無闇に大権を発動し、国家を動かしていたのであれば、それは「専制君主制」の国家であり、「天皇がすべての権力を支配する日本」という事になる。
例えば、明治27年に始まった「日清戦争」では、日本政府おもに外務省と軍部は清国(当時の支那地域の支配国)との戦争は止む無しという事で、開戦に向けて準備を進めていたが、この時の明治天皇は清国との戦争には反対していた。
しかし、政府はそんな明治天皇のご意向を全く無視して開戦した。天皇のご意向よりも政府の意志が最優先されたのであり、開戦直後の当時、伊藤内閣において明治天皇は政府の方針に従って、開戦を裁可された。というより、裁可されるほか無かったのである。
そんな中でも、天皇陛下が自らご判断を下した例が2つあった。それは2.26事件と、終戦の詔勅の時である。
2.26事件は昭和11年、日本陸軍の青年将校を中心として勃発したクーデターである。この時の首都東京における政府機能はこの将校たちによって占拠状態とされ、政府が完全な機能不全に陥った「無政府」状態になった。
これに対して軍首脳部も青年将校らを支持するべきか否かを決めかねており、これら将校を反乱軍として処罰するべきかどうかも判断出来ない状態になっていた。この時に先帝陛下自ら「これらは反乱軍である」と政治判断をされたため、ようやく軍部も決断し事件が収束した。
二つ目の終戦においては当時の日本は、大東亜戦争を終戦させるか否かを決める御前会議において、当時の鈴木貫太郎内閣の首脳陣はその判断を出来ずに決めかねていた。そこで先帝陛下にご判断を仰ぎ、陛下が終戦することのご聖断をされた。事実上、政府が完全に機能を停止していた状態であったため、2.26事件の時と同様に、陛下にご判断頂く他に事態を打開する手立てが無かった、非常事態の緊急措置として見るべき事例であった。
この事によって、帝国憲法第五十五条は解釈はすでに確定したいたといえ、日本において帝国憲法が正常に作動し、立憲君主国家として成り立っていた事の証左であると言える。日清戦争も日露戦争も、大東亜戦争開戦においても天皇陛下のご意向が優先されることは無く、戦争責任など存在しないのである。
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